2016年02月10日

猫の話。私の話。


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教育分析の話やピアノの話もしたいが、今日は猫の話。

週の始めにカッパちゃんという名のお外猫の写真展に行ってきた。
ねりまねこさんというかたのブログに登場するニャンコなのだが、人気者となり今や日本中で写真展が開催されている。
私の住んでいる所からも行けそうな場所で何度か開催されていたのだが、今まで行くことができなかった。
今回は絶対に行こう!と決めていたもののなかなか行かれず、最終日ギリギリセーフでようやく念願のカッパちゃん(写真だけど)に会うことができた。

開催会場はおしゃれなカフェで、飲食するとカッパちゃんの缶バッチプレゼントという素敵企画もあったのでそちらでランチをいただいた。
写真を眺めながら食べる美味しいパスタとコーヒーに大満足。

お店のかたに、猫が好きなのかと聞かれ、なんだかとても話しやすい感じだったこともあり、ウチに来るお外猫の話、我が家の猫となった横ちゃんの母さんとの出会いから仔猫の手術、横ちゃん出産、里親探し…と、一連の出来事を「一人で本当に大変だった。」と話してしまった。
お外猫達や横ちゃんは幸せですね、と言ってくれたことに対して、ヒトの都合でやってしまったことだけど…。と応えたものの、その言葉を聞いて報われたようで本当に嬉しかった。
幸せな気持ちで店を出てしばらくすると同行者が「一人で大変ってずいぶん力説してたね。」と言った。
それを聞いてハッとした。
おいおい、ちょっと待て。
私、一人じゃなかったじゃん。
とても大変ではあったが、気づかい、助けてくれる人が周りにたくさんいて感謝してばかりの日々だったよ。
なのに、なぜ孤独な悲劇の人みたくなってんだ。

それにはいくつかの要素あった。

カフェで私の話を聞いてくれたかたは、愛護団体の方だと思う。
愛護団体に対して私は複雑な想いをもっていた。
自分の知識、認識不足もあり、横ちゃんの兄妹猫捕獲の時、複数の愛護団体関係者の方々に相談したくても突き離された対応を受けたように感じ、不安感や失望感がずっとあった。
だが、その時の対応を今はもっともだと考えている。
が、そう考えつつもどうやら私はその時味わった衝撃を未だに結構引きずっていたんだな。

そのうえ今現在、体調不良+少々ネガティブ思考チックとなっている。
なんであれ大変というキーワードがあれば同じものにしてしまっている感がありありだよ。

だから、ここの所じんわりした大変クン(何それ…(笑)が漂い続けてるそこへ団体関係者ときて、過剰に反応し(私の衝撃とは全く無関係の団体の人なのに)
大変だったんだから!!
一人で!!(団体と私だけの世界になっとる。)
と、言いたくなってしまったんだろう。
甘えん坊だね。
…申し訳ない。

今の大変と過去の出来事は別問題なのに何ゴッチャにしとるんだ、ワシ。
まったく、余裕がないとマイナスばかりを拾い、関わりも何もなしで兎に角くっつけて「ネガティブ団子」作って闇雲に投げつけてやしないかい?
もうカフェの人、優しすぎて天使のようだよ。
みんな同じようにいろいろある。ってことと、出来ることをできるだけ。ということを良しとしている方なのだろう。
と、そこまで考え、当時の愛護団体の人達の忙しいそうで、とても大変そうな様子が頭に浮かんだ。
私と同じように体調不良で余裕がない状態だったかもしれない。
そうであればマイナス要素しか拾ってくれないかもなぁ。
で、「彼らにとっての面倒で最悪な事態団子」(長いよ(笑)の一部に瞬時にくっつけられて、それ勘弁!と考え、全力で投げてつけてくるかもなぁ。と、今までの納得とはまた別の側面からとても腑に落ちたのだった。

あの頃、自分にできることは精一杯やったつもりだ。
それで十分だ。

そして今自分が出来ることは、
出来る範囲でお外猫と関わり、活動している方々を私なりに応援していくことであって、人様の言動にこだわり続けることではない。
ネガティブ団子作りでもない。

人の話を聴けるというのは、そのスペースがなければ難しい。
スペースは自分を労わり大切にすることにより自分が作らないとできない。
そのためにはやっぱり自分のことをまず大事にしよう。
ここのところ様々なエピソードから自分を労わることが大切だという答えに何度も行き着く。

そして、いつも何気ない一言がとても大事なヒントになっている。
ありがたいなぁ。
そういった言葉たちをこれからも聞き逃さず丁寧に拾える私でいたいと思う。
posted by 静 at 22:09| Comment(0) | こころの話

2015年11月12日

特別扱いはおしまい


教育分析に行く。

途中で見かけたママと赤ちゃんがとても可愛かった。

彼は自分で歩きたかったのに、急ぎたいママに抱っこされて怒っていた。
ママは「抱っこのほうが早いでしょ」などと言ってなだめていたが、そんなママの都合は彼にとって重要ではないのだ。
「ボクは今!今この時を歩きたいの!!」と、訴えるかのようにママの頭をポカポカ叩いていた。

自分の子どもが小さい頃、同じような場面に遭遇したら、いたたまれない気持ちとか、批判的な気持ちとか浮かんでいただろうなぁと思う。
でも、今それはとても微笑ましい光景に見える。
歩きたいんだねぇと思いながら見守っていたら、頭をポカポカされているママの隣を歩くお友達であろうママと、そのママに抱っこされてる赤ちゃんが、怒っている彼にちょんちょんとチョッカイを出し笑った。
すると、今まで大激怒だったその人がケラケラ笑った。
それとほぼ同時にママ達がワッと声をあげて笑った。
二人の赤ちゃんは抱っこされたままお互いのおデコをくっつけてまた笑った。

あまりに可愛くて、それを見ていた私も自然と笑っていた。
ふと目をやると、たまたまそこにいた通りすがりの幼稚園くらいの彼も様子を見て笑っていた。
なんだかホンワカした優しい世界がそこにあった。
それまでどんよりした気持ちで歩いていたが、ちょっと幸せな気分になった。

先生のところへ着くなり、その話をして私は喜んでいた。
…が、それだけのことだと、このときは思っていた。

先生と話をしていくうちに、私はあることに対し「みんなそれぞれの何かに怒っている。」と言った。
そういう状況にいるんだろうなぁという意味で言っていた。
が、次の日、先生のブログを読んで、いろいろと思い返してみるうちに私の怒りの捉え方の歪みに気づいた。

そうなんだよ!
みんなそれぞれの何かに怒っているんだってば!
それはたいていは特別なことではなく日常。
人は日々、大小あれど様々な怒りの感情を持つ。

私にとって、怒りは恐怖だった。
かつて、一方的にぶつけられ見せられた怒りの感情を不快だ、不当だと伝えることはできなかった。
恐怖は悲しみという感情もくっつけて怒りと共に心の奥にしまい込まれ留まり続けた。

ずっと怒っている人が苦手だった。
が、実際は自分自身が一番いつも怒っていた。
そのことが嫌でたまらなかった。
だから、怒りと無縁な人に見られると安心した。
温和な人とか?
…全然温和ではないのに。
そして、温和な人にだって怒りの感情はあるはずなのに。

「気が短く激しい」というのが私の主成分だ。
主成分なのにそこは自分の嫌だと思う部分だ。
なぜなら私にとってはその主成分=怒りだから。
怒っても良いと、怒りも大事と許可をしていても、「それは良くないことなんだけど、ま、必要だからさ…」って、心の奥では考えてた訳だ。
きっと、ずーーっと怒りは特別だった。
だからいつも怒りの裏側の何かを探した…?
……。
私の主成分=怒り=恐怖=父
という図式に今たどり着き、ぎゃーー!!という気持ちと、あーやっぱね。という気持ち。
「違うもん!同じじゃないもん!」と、自分の怒りにはほかにも何かが必ず隠れていると思いたかったのか。

でもさ、この図式間違ってる。
同じじゃないから。

喜怒哀楽はただの感情。
それぞれの感情に優劣はないのだと、何度も何度も思い返そう。

先生のところに行く途中で出会った赤ちゃんの出来事がリンクする。
そこには感情がただ感情のまま存在していた。

怒りたいから怒る。
笑いたいから笑う。
そのまんまの世界。

そんな世界を私も今、生きているんだ。

先生の所へ向かう前からヒントは示されてたのかー。
いや、そうじゃない。朝からだ。
その日見た夢が、喜怒哀楽そのまんまだった。
Мさんが、お店でメッチャ怒ってたの(笑)
私がそれを店側に伝えようとしてる夢。

Мさんは私の次の時間に予約を取っていて、少しだけお話した。
その時に、今日は夢に私が出てきたので会えると思っていたと教えてくれた。
夢の中の私は蛇を持ってМさんを追いかけていたそうだ。(笑)

ここ数年、怒りが自分のテーマだなぁと感じてきたが、これ、数年どころの話じゃないや。

ずっと怒りを変に特別扱いすることで、これは良くない状態だから、良い状態に持っていかなくてはならんし、持っていけないのは、何かが足りないからだろうと考えはもうおしまい。

恐怖と捉えていたものを、感情のひとつと理解しても、それを自分のものにするのには時間がかかる。
何度も繰り返し、思い出し、自分に言い続けよう。

みんな何かを喜んでいる。
みんな何かを怒っている
みんな何かを哀しんでいる。
みんな何かを楽しんでいる。

それぞれの日常の喜怒哀楽。
裏も表もなく感じるまま。

日々は一瞬の連続だ。
どこかの一瞬を変えることから始めればいい。

先生とМさんと私の無意識と見知らぬ親子がくれたヒント。
すべてにつながりを感じた出来事だった。
posted by 静 at 22:14| Comment(0) | こころの話

2015年10月09日

ひとつの考え


この距離感がこのひとたちの許容範囲らしい。

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自分のことを受容してもらえる喜び。

人はひとりだ。
同じ時間を過ごすことはあっても。
みんなひとり。
だから気持ちを分かち合えることがとても嬉しい。

いろんな人がいる。
私は私のままでいい。
その中での自分の役割を果たしていこう。

人と違う感覚を否定しない。
それは自分にとって大事なものとなる。

*****

先日、教育分析へ行って、とても嬉しく幸せを感じた出来事があった。
それで、↑のようなメモを書いた。片言である。

その数日後、ぼんやりとTwitterのタイムラインを眺めていた時に、あるまとめが目にとまった。
イラストレーターの方のつぶやきをまとめたものらしいが、うぉぉ…と思ってしまった。(また謎の擬音だ…)
その人は戦っていた。
画面の向こう側にいるたくさんの自称善い人達と。

その人は自分のつぶやきに対してのアドバイスを一切拒否している。
だか、そう何度も明言しているのに、つぶやきのたびに善い人からの「こうすればいいと思います。」とか、「心配です。」的なリプが飛んでくるようだ。
それを、「ありがとうございます!アドバイス罪です!」と言ってから全てブロックしている。

善い人はビックリする。
あなたの為を思ってのことなのに、どうしちゃったの?と。(ここは私の想像だが…)
が、その人にとって、頼んでもいないアドバイスは、自分の脳を停止させてしまうことで、緩やかな殺人だとしている。
自分で決めて、それが最善だと考えていることに対して、全く別の方法を勧めてくるのはなぜだろうという。
さらに、本当に協力し合わなくてはいけない時に、知らんぷりしている人にはアドバイスしたほうがいいと思うが、自分に被害の及ばない事柄に関して世話焼きになり、助言する人達は一体なんなのだと思っている。

まとめを読み進むと、その世話焼きさんが、あなたは誰のアドバイスも聞かないんでしょうね…とか言ってて、それもなかなか興味深い。
Twitter上ではない、自分にとって必要なアドバイスは聞くよ、助け合う時には助け合うよ。と、一貫して言い続けてるのに。

それにしても、あなたのアドバイスは必要ない。と、これだけハッキリ言い続けてるのは、すごいなぁと思う。

これらのやり取りを読んで、アサーションをするときも、ユーモアがかなり助けとなるんだなと感じた。
…アドバイス罪ってネーミング、素敵すぎ。
それでも、なんにせよ伝えたいことを真剣に伝えようとすることは、自分のエネルギーをとても消費することなんだとも思った。(9月のトレーニングの会のワークにもリンクしてる。)

まとめを読み終えてからしばし考えた。

これはいつかの優しさについての話にも繋がっている。
人はそれぞれ違うものと考えるのが難しい時がある。

日々の中で、互いを尊重しつつそれぞれの中にある似た感覚や思考を理解し、分かち合えるということは、当たり前のことではない。

冒頭のメモが、なんだか片言なのは感動のあまりうまく表現できなかったからなんだが、当たり前のことじゃないんだ、すごいことなんだって思ったら、私の感動度合いも、片言にも納得した。
posted by 静 at 20:32| Comment(0) | こころの話

2014年07月10日

手放す 取り入れる

教育分析に行く。
自分が何を考えているか、何をしたいと思っているのか…。
心の中を整理整頓。
自分を苦しめる思考に気づいたらそれを手放す。
何度でもくり返す。
未来はどんな自分になっているのだろう。
希望はあるけど、想像つかない。
先生はそれで良いのだと仰った。
そうか…そうだね。
見えない、わからないことは不安なことばかりじゃなく、宝探しのような楽しみなことでもあるんだ。


少し前、私はあることで怒っていた。
その気持ちをわかってもらいたくて話しても全く伝わらないということがあった。
なぜか。
世間体や自分勝手な道徳感、正義感もどきで包んだ気持ちは、話している相手には届かなかった。
会話の途中で自分の中で違和感を覚え、好き・嫌いという言葉で伝え直したら理解してもらえた。
その時に気づいた。
私は心の奥で嫌いを「嫌い」と感じることを認めない、良くないことと思い込んでいると。

怒っていいし、嫌いでもいいんだよ。
私の中の正直な気持ち。
抑えつけてはいけない気持ち。
それが自分を守っている。

日常の怒りや嫌いを別の問題での憎しみや、しなくてもいい自己否定とごちゃ混ぜにして自分を苦しめることはないのだ。
posted by 静 at 23:15| Comment(0) | こころの話

2014年07月01日

気づき合い、学び合い

Mさんが夏越の大祓へ行きたいなぁと少し前から言っていた。
その時私は「ふーん。」ってな感じだったけど、前日になったら急に気になってきて、Mさんに「私も行きたいなぁ。」と連絡した。
メールを送信した直後に「あっ、一人で行きたかったかなぁ…」と思ってたけど、すぐにMさんからOKの返事がきた。
で、昨日、一緒に東京大神宮へ行ってきた。

私ね、全くわかっていなくて、パッとお参りして帰るんだ的な雰囲気だったの。
でも、なぜかいつのまにかばっちり儀式に参加することになっていた。あれ。
きっと、受けてけ。ちゃんと。ってことだったんだろう。

始まるまでに少し時間があったので、遅めのランチ。
オムライスおいしかったー!

時間よりも早めに戻ったら、もう境内にはたくさんの人がいた。
人酔いしそうな状況なのに平気だった。不思議。
なんだか時折良い香りもしてきて、みんなで静かに待った。

時間が来たので順番に「茅の輪」をくぐる。
何度かくぐっていたら、急になんかこみあげてきて泣きそうになった。
あとでMさんにそのことを言ったら、「私もっ!」とMさん。

よくわからないまま来てしまった私だけど、必要だったからなんだな。
来てよかった。
Mさんありがと。

そのあと、ちょっと行ってみたい本屋さんがあったので、神保町まで。
猫本があふれている本屋。…素敵だった。


Mさんと街を探検したり、お話ししたり…。

今回、出張カウンセリング扱いにしてほしいと言われた。
自分を大事にしたいと真剣に向き合っているMさんの気持ちをそのまま受け取った。

つい先日、なにか機会があったら言おうかな、とぼんやり考えていたことも伝えられてよかった。
大丈夫だよ。ってことだけ伝えるつもりだったけど、結局、私がその大丈夫を伝えようとなぜ考えたのか、ということも言った。
中途半端な伝え方では失礼だから。
そんなことを私も気づかせてもらえた。

貴重な時間を過ごすことができて本当によかった。
それぞれの課題に一人で向き合う日々が続くけれど、独りではない。
posted by 静 at 23:13| Comment(0) | こころの話

2014年06月20日

怖くはない

ヒプノセラピーを受けた。


心理を学び、様々な技法があると知った時に、私は交流分析が好きだなぁと思った。
それは、自分が分かっている事柄から自分の傾向をパッと見ることができ、どの部分を意識すればより良く生きられるかがとてもわかりやすく思えたから。

…が、自分が蓋をして見ないようにしているもの、自分がよくわかっていないものに光をあて気づきを得る…というような技法はとても怖く感じるのだった。

ヒプノセラピーも私にとっては怖いゾーンにあった。

よくわからないもの、見たくないものは悪いもの。
だからそれを見なくてはならないものはとても怖いという思い込み。

そう、これは思い込み。

今回、今までのパターンとは違うところから自分を見たいってことと、思い込みと知っていても心から納得できていない私をどーにかしたい…。
いや、少し違うな。
納得できないでいる私と話がしたかったんだ、きっと。

…と、まぁとにかくドキドキしながら初めてヒプノセラピーを受けた。

結果。
怖いものではなかった。(あたりまえ(笑)

とても不思議な展開だったけど、そうなるようにできていたんだなぁと思う。

私は一つ一つを積み重ね、大切なものをちゃんと手に入れていた。
自分の力で。
その歩みを想うと自分自身が愛おしくなる。


これからは、怖いという気持ちとのつき合い方も少し変わっていく。
ちょっと楽しみかも…。
そんなことを今は思っている。
posted by 静 at 23:13| Comment(0) | こころの話

2014年06月07日

ラッキー

私にはとても気になることがある。
が、それは私のものではない課題だ。
けれど、どう関わることが自分にも、課題を解決する本人にとっても良いことなのかを考えてしまう。
考えだすと底なし沼状態。
で、おいらはおいらの楽しみを幸せをたくさん見つけて、自分の人生をどれだけ豊かにできるかを最優先することで、プラスのストローク貯金をわんさか心にもってる見守り協力隊?を目指そうということで自分の中では落ち着いていた。

久しぶりの友人達と会った時、その関心事について話した。
自分ではもう回答は出てる話として。
そしたら、話のある部分について友人のひとりが「みんなそうじゃない?」と言った。
その時に思った。
自分はこのことを普通の事ではない異常事態なんだと相変わらずずっとずっと思い続けているじゃん。しつこいなぁ。
そして普通の事ではないってのが自分にとって支えだったんだと気がついた。
目からウロコ。
あとちょっとショックだった。
うわぁ…って思った。
あ、でも、これは自分を叩こうとする私の思考。
その人は私を励ますため、そして私に共感して言ってくれたのだ。

歪んだ見方、自分叩きは己を苦しめる思考のパターン。
それが自身を守り続ける唯一の方法と思っていた昔々。
けれどそうではないと知っている、わかっている今。
なので、うわぁ…と同時に、「あー、みんなそうなんだ。」とホッとしている私がそこにいた。
それで私はどうしたいのかと言えば、答えはもう出ている。

それにしても普通って何?
普通じゃなかったら異常事態って何だよ。
積み重ねた結果がそこにあるというだけ。
その結果をじっと見つめているだけでは何も始まらない。
そこからどうしようか、どうしたいのかってことが大事なんだ。


昔からこの友人は公平で、何が大事かをわかっていた。
仕事をするってこういうことなんだって事もこの友人から教わった。
今回、思ってもみなかった自己開示もしてくれたけど、やっぱり凄い人だった。

見えなくなっている物事の一面をありのままに伝えてくれる人が周りにたくさんいて本当にわたしゃラッキーおばさんだよ。
そして先生が言ってくれた言葉を思い出す。
その人達といることを私自身が選択しているのだと。
わたしグッジョブ!!…と自画自賛する日々。

これでいいのだ。
posted by 静 at 12:37| Comment(0) | こころの話