2015年11月25日

すべて意味のあること(カウンセラートレーニングの会)


11月のトレーニングの会

着いたら一番乗りだった。
ので、(…ということもないが)ある話を先生にする。
途中でAちゃんが到着。
もぉ聞いてよぉ〜的に話しを続けるとメッチャ共感してくれた。
ありがたいなぁ。

近況報告では、暗さの中に見えた明るさの話とか、物事の捉え方の歪みとか、自分が親から受け継いでいるものとかを話す。(こう書くとなんのことだかさっぱりわからんな。)

私はもう答えを急いで見つけようとは思ってないのかもなぁ。
そんなふうに今感じた。

仲間が、自分の話を聴いてくれて、それについての想いや考えを述べてくれることでの気づきはもちろん、他の人へのシェアからでさえ自分にとってのたくさんのヒントになる。
ひとりひとりが違うということは、たくさんの見方があるってことだ。
それを見聞きする機会があって、そこから何かを感じ取れない筈はないんだと思うからだ。


今回のワークは素敵なワーク。
以前やった時よりも素敵と思う度合いが自分の中でアップしてた。
おもしろい。

人はひとり。
でも、生きていく中でたくさんの人と関わり助けてもらっている。
そうしないと生きていけない。
それを体感するワーク。
今回の私はお助け隊の一人。

ワークをやって思った。
人の役に立つ事は嬉しいことだ。
誰かの助けになりたい。
それが好きな人、大切な人だったら余計にそう思う。
でも、私は自分で自分を支えることすら難しいと感じることがある。
そんな時は助けてもらおう。
立ち上がって進んでいくためにきちんと頼ろう。


「心」という器に「愛情」という水を注いでも、その器にヒビが入っていてはいつまでたっても満たされることはない。
ヒビがあることが不幸ということではない。
ヒビは直せばいいのだから。
直す方法もたくさんあるはず。
ただ、その器のヒビを直せるのは自分以外にいない。
それをしないでいることは幸福を遠ざけているように感じる。

水が器のヒビからどんどん漏れているのに、直さずに注ぎ続けることを求めたり、人の素敵な器を欲しがってばかりでは決して望む幸せは得られないだろう。

心には替えがない。

私の器はヒビだらけだ。
けれど、直したヒビのひとつひとつを愛おしく思う。
たくさん直してもまだ時折漏れるけど。
ま、ひとつひとつ取り組んでいくしかないのだ。

(……器とヒビがゲシュタルト崩壊した。(笑)


トレーニングの会が終わった帰り道、月がきれいだった。
みんなで月を見上げ笑いながら歩いていた。
Aちゃんが、あー幸せだと呟いた。
そうだね。幸せだ。と、私も思った。
posted by 静 at 22:47| Comment(0) | 修行中

2015年11月12日

特別扱いはおしまい


教育分析に行く。

途中で見かけたママと赤ちゃんがとても可愛かった。

彼は自分で歩きたかったのに、急ぎたいママに抱っこされて怒っていた。
ママは「抱っこのほうが早いでしょ」などと言ってなだめていたが、そんなママの都合は彼にとって重要ではないのだ。
「ボクは今!今この時を歩きたいの!!」と、訴えるかのようにママの頭をポカポカ叩いていた。

自分の子どもが小さい頃、同じような場面に遭遇したら、いたたまれない気持ちとか、批判的な気持ちとか浮かんでいただろうなぁと思う。
でも、今それはとても微笑ましい光景に見える。
歩きたいんだねぇと思いながら見守っていたら、頭をポカポカされているママの隣を歩くお友達であろうママと、そのママに抱っこされてる赤ちゃんが、怒っている彼にちょんちょんとチョッカイを出し笑った。
すると、今まで大激怒だったその人がケラケラ笑った。
それとほぼ同時にママ達がワッと声をあげて笑った。
二人の赤ちゃんは抱っこされたままお互いのおデコをくっつけてまた笑った。

あまりに可愛くて、それを見ていた私も自然と笑っていた。
ふと目をやると、たまたまそこにいた通りすがりの幼稚園くらいの彼も様子を見て笑っていた。
なんだかホンワカした優しい世界がそこにあった。
それまでどんよりした気持ちで歩いていたが、ちょっと幸せな気分になった。

先生のところへ着くなり、その話をして私は喜んでいた。
…が、それだけのことだと、このときは思っていた。

先生と話をしていくうちに、私はあることに対し「みんなそれぞれの何かに怒っている。」と言った。
そういう状況にいるんだろうなぁという意味で言っていた。
が、次の日、先生のブログを読んで、いろいろと思い返してみるうちに私の怒りの捉え方の歪みに気づいた。

そうなんだよ!
みんなそれぞれの何かに怒っているんだってば!
それはたいていは特別なことではなく日常。
人は日々、大小あれど様々な怒りの感情を持つ。

私にとって、怒りは恐怖だった。
かつて、一方的にぶつけられ見せられた怒りの感情を不快だ、不当だと伝えることはできなかった。
恐怖は悲しみという感情もくっつけて怒りと共に心の奥にしまい込まれ留まり続けた。

ずっと怒っている人が苦手だった。
が、実際は自分自身が一番いつも怒っていた。
そのことが嫌でたまらなかった。
だから、怒りと無縁な人に見られると安心した。
温和な人とか?
…全然温和ではないのに。
そして、温和な人にだって怒りの感情はあるはずなのに。

「気が短く激しい」というのが私の主成分だ。
主成分なのにそこは自分の嫌だと思う部分だ。
なぜなら私にとってはその主成分=怒りだから。
怒っても良いと、怒りも大事と許可をしていても、「それは良くないことなんだけど、ま、必要だからさ…」って、心の奥では考えてた訳だ。
きっと、ずーーっと怒りは特別だった。
だからいつも怒りの裏側の何かを探した…?
……。
私の主成分=怒り=恐怖=父
という図式に今たどり着き、ぎゃーー!!という気持ちと、あーやっぱね。という気持ち。
「違うもん!同じじゃないもん!」と、自分の怒りにはほかにも何かが必ず隠れていると思いたかったのか。

でもさ、この図式間違ってる。
同じじゃないから。

喜怒哀楽はただの感情。
それぞれの感情に優劣はないのだと、何度も何度も思い返そう。

先生のところに行く途中で出会った赤ちゃんの出来事がリンクする。
そこには感情がただ感情のまま存在していた。

怒りたいから怒る。
笑いたいから笑う。
そのまんまの世界。

そんな世界を私も今、生きているんだ。

先生の所へ向かう前からヒントは示されてたのかー。
いや、そうじゃない。朝からだ。
その日見た夢が、喜怒哀楽そのまんまだった。
Мさんが、お店でメッチャ怒ってたの(笑)
私がそれを店側に伝えようとしてる夢。

Мさんは私の次の時間に予約を取っていて、少しだけお話した。
その時に、今日は夢に私が出てきたので会えると思っていたと教えてくれた。
夢の中の私は蛇を持ってМさんを追いかけていたそうだ。(笑)

ここ数年、怒りが自分のテーマだなぁと感じてきたが、これ、数年どころの話じゃないや。

ずっと怒りを変に特別扱いすることで、これは良くない状態だから、良い状態に持っていかなくてはならんし、持っていけないのは、何かが足りないからだろうと考えはもうおしまい。

恐怖と捉えていたものを、感情のひとつと理解しても、それを自分のものにするのには時間がかかる。
何度も繰り返し、思い出し、自分に言い続けよう。

みんな何かを喜んでいる。
みんな何かを怒っている
みんな何かを哀しんでいる。
みんな何かを楽しんでいる。

それぞれの日常の喜怒哀楽。
裏も表もなく感じるまま。

日々は一瞬の連続だ。
どこかの一瞬を変えることから始めればいい。

先生とМさんと私の無意識と見知らぬ親子がくれたヒント。
すべてにつながりを感じた出来事だった。
posted by 静 at 22:14| Comment(0) | こころの話

2015年11月03日

感想文その2 まだまだ拾うぜver

image.jpg

トレーニングの会の次の日、庭園美術館に行こうと家を出た。
実は一度行っているのだが、イベントに参加するための丸玉を忘れたり、その他にもいろいろと納得いかないことがあったため仕切り直したかった。
今回は忘れないように早目にビーズの丸玉をカバンに入れ準備は万端のはずだった。
…なのに。
目黒駅からのんびり歩いて美術館の入り口に着いたらまさかの休館日の看板が。
……もうさ、なんで確認しないんだろうと己を呪う。
しかし呪っていてもどうにもならん。
美術館の後、元気があったら渋谷で映画を観たいなぁと考えていたので、慌てて時間を見てみると、観ようと思っていた一つ前が、ギリギリ間に合うかという時間に上演することがわかった。
超早歩きでまた駅に戻り渋谷へ向かう。
渋谷駅からもガシガシ歩く。
普段は歩くのが遅いと言われている私だが、上演5分前に到着できた。
やればできるのね。
ハアハアいってるけどね。

それほど大きくない劇場内はいっぱいで一番前しか空いていなかった。
首が痛かった。
ここのシアター、二度ほど来てるがあまり混んでないイメージだったので驚く。

さて、座って落ち着きふと思う。
最近観たいと楽しみに思うものってもれなく暗いがこれもそうだろうか…。
同行者にそれを伝えてみたら、そうかもねぇと笑われる。
いやいやいやと考えを打ち消していると映画がはじまった。
「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」
ドキュメンタリー映画である。

物語はある青年がオークションで大量のネガが入った箱を競り落とした事から始まる。
自分の求めていた写真は見つからずその箱はしばらく放置されていたが、ある時改めて見て撮影されたものの素晴らしさに気づいた。
web上に何枚かアップするとコメントで絶賛された。
それから全てのネガを自分の元へ集めだし、撮影者を探したが何も手がかりはなかった。
しばらくしてからもう一度撮影者の名前を検索したら一件だけヒットした。
それは数日前の死亡記事。
そこから撮影者、ヴィヴィアン・マイヤーを知る旅が始まる。

謎だったヴィヴィアンの姿が徐々に形作られていく様に、この映画の監督でもあるネガの持ち主の執念みたいなものを感じた。

写真の素晴らしさだけでいいじゃん。
その人がどんな人間だったかなんてどうでもいいじゃんと思うが、謎は解きたくなるし、知りたいと思うのが人なんだろう。

ヴィヴィアンと関わった人達の証言でストーリーが進んでいく。
なぜか語る人たちの話が食い違いを見せていたりして面白かった。
でも、どれも本当の彼女だと思う。

ヴィヴィアンはナニー(乳母)として働きながら15万枚以上の作品を残した。
カメラを持ち歩き、撮影をしていたことを知る人はいても、その作品を見た人というのはいなかった。
誰にも見せなかったのである。
その作品は、街ゆく人々や子どもたちの様子や、そして自分自身をありのままにとらえている。

映画では、撮影された作品の素晴らしさを知ると同時にヴィヴィアンの暗部が見えてくる。(!!!やはり暗い。)

気難しく人との関わりを嫌う。
ある子どもたちへの虐待。
物を集め続けることでの周囲とのいさかい。
孤独。
ヴィヴィアンは悲惨な事件の新聞記事を好み、ほらね。やっぱりね。といった様子で読んでいたそうだ。
暗部の最たるところだろうが、そこで私は「そうか、彼女も人間クズ説を唱えていたんだな」と思った。

変わり者で他人の進入を許さず、闇を抱えた彼女だけど、その作品からは人が好きでこの世界が好きだという想いが溢れてるように見えた。

写真集が欲しくなった。

しかし、彼女は今の状況をどう思うだろう。
作品が人に認められることは望んでいたかもしれないが、知られなくないこともあったのでは…。
映画が終りそんなことを考えながら外へ出たら、同行者に、お前さんやっぱり暗さを選び取ってるねぇと言われた。
posted by 静 at 12:54| Comment(0) | 日記

2015年11月02日

感想文。感動よりも暗さを拾うのver

少し前にWOWOWで「百円の恋」をやっていたので観た。
映画館に観に行きたいと思っていて行けなかった映画だ。

主役の一子を演じる安藤サクラさんを知ったのは、「愛のむきだし」という映画だった。
なんだこの人はと思った。
サクラさんは可愛いし、美しい人だと思う。
けど、役の中の彼女はどうしようもなく気持ち悪くて不細工に見えた。(これ、褒め言葉)
で、「百円の恋」でも、なんだこの人は…と。

物語が始まってすぐのシーン。
ドカっと座り、テレビゲームをしている後ろ姿が映る。
シャツをめくり腰のあたりをぽりぽり掻いているが、腰回りがたぷん、ぷよんとしていて、それだけで怠惰な生活を送っているだろうことが想像できる。(…なんだかツラくなる。すでに投影(笑)
が、終盤のシーンでの彼女は、ボクシングにのめり込み、引き締まった身体にキビキビした動き。
その変化に驚く。
役の中での内面の変化を感じつつ、この見た目が全然違うっていうのがすごい。
これを2週間とかそこいらでやってしまうという役者魂にやられた。
スゲーお人だ。

しかしまぁ、この話の中の世界がしんどかった。
もー投影の嵐。大嵐。
状況は全く違うのに、そこに漂う空気や部屋の暗さとか、そういったものが自分の子ども時代を思い起こさせたのだ。

劇中で底辺と呼ばれる人の日々。
世の中は公平ではない。
人の弱さや傲慢さやクズっぷりをこれでもかと見せられた。
頑張りが報われるようには見えず、状況からすればダメはダメのままラストとなった。

見た直後は何も言葉浮かばず。
感動なんてとんでもない。
茫然。

が、今はこう思う。
幸福とか不幸とかは見た目や他人の価値観で判断するものではない。
一子が、一つのことを成し遂げたのは間違いない。
そこから何を感じ、どう思うかは本人だけのものだ。

みっともなくて痛々しい一子が、それでも進んでいこうとする姿にみんな感動したのかな。
私も一子は嫌いじゃない。
だから周りの男どもは許せねぇ。
このクズどもがっ!!!
そんな映画だった。

…コレ観た時にはもう「なんでも暗部拾うぜ!キャンペーン」真っ最中だったようで…。
なんかすまんです。(謎の謝罪(笑)
posted by 静 at 23:50| Comment(0) | 日記

2015年10月31日

どちらでもいい。必要だから選んでいるのだ。(カウンセラーズトレーニングの会)

忙しいとか、思考停止とか、現実逃避とか、言い方は様々あるが、まぁ自分とがっつり向き合えないなぁと感じる時がある。
それで、雑務に追われたり、または何もしなかったり、遊んだりして過ごすわけだが、そういう時に自責の念がムクムクと湧いてくるのが昔からの私のパターン。
少しのことで疲れる。
何もしなくても疲れる。
気分転換にもあまりならない。
そういった日々の中でも、幸せとか喜びはあるのだけど、そちらには目がいかない。

近頃は、そんな時は「あー、そうなのねぇ…」と思っている。
自責さんが、消滅したわけではないので、「なにをしてるんだ。」という気持ちもほんのり残ってはいるが、あまり気にしない。(ようにしている。)

長々ダラダラ書いているが、ここのところ停止とか逃避モードになっている私である。

客観的に見れば、嬉しいことや幸せなことが結構あった。
まぁ、嫌なことも面倒なこともそれなりにあったが。
ともかく、バランスよく(?)盛りだくさんな日々なのだ。
が、様々な場面において、陽より陰、明より暗、プラスよりマイナス……。てな感じで選び取ってるなぁ、
なんか知らんが、そっちにいたいんだなぁと感じていた。

なので、先日のトレーニングの会でも、
「暗いです。ダークサイドにおりまする。
昔のことを思い出し、怒ったり、嘆いたりしてるのでする。
それには理由があるのだろう、どんな理由かは知らんけど。」と、いうようなことを話しつつ、少々の自虐要素を含ませて、夜な夜な恐ろしいゲームをPCでやっていると話した。

仲間は皆、優秀なカウンセラーなので、そのまんま受け止めてくれる。

ある人が、いろいろ思い出すのはそれを考えられるようになったからではとシェアしてくれた。
そして、私の中の自責さんが一番何をしてるんだと思ってる恐ろしいゲームについて、これをまさにカタルシスみたいに言ってくれた。
「おおーっ!」目からウロコぼろぼろ。
心の中の様子を、ゲームという形で自分の目で見てんのか…。
がっつり向き合ってるじゃんか。
それはマイナスでありプラスである。
そんな状態なのか。
仲間にそのまんま受け止めてもらった嬉しさと共に、この時、自責さんにも許された気がした。
意識上で自分に「ゲームよしっ!」と許可できた。

それと、自分の中の無意識や直感が一番私をわかっていて、私を好いてくれているんだなぁと思った。
なんだか嬉しかった。
posted by 静 at 22:47| Comment(0) | 修行中

2015年10月09日

ひとつの考え


この距離感がこのひとたちの許容範囲らしい。

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自分のことを受容してもらえる喜び。

人はひとりだ。
同じ時間を過ごすことはあっても。
みんなひとり。
だから気持ちを分かち合えることがとても嬉しい。

いろんな人がいる。
私は私のままでいい。
その中での自分の役割を果たしていこう。

人と違う感覚を否定しない。
それは自分にとって大事なものとなる。

*****

先日、教育分析へ行って、とても嬉しく幸せを感じた出来事があった。
それで、↑のようなメモを書いた。片言である。

その数日後、ぼんやりとTwitterのタイムラインを眺めていた時に、あるまとめが目にとまった。
イラストレーターの方のつぶやきをまとめたものらしいが、うぉぉ…と思ってしまった。(また謎の擬音だ…)
その人は戦っていた。
画面の向こう側にいるたくさんの自称善い人達と。

その人は自分のつぶやきに対してのアドバイスを一切拒否している。
だか、そう何度も明言しているのに、つぶやきのたびに善い人からの「こうすればいいと思います。」とか、「心配です。」的なリプが飛んでくるようだ。
それを、「ありがとうございます!アドバイス罪です!」と言ってから全てブロックしている。

善い人はビックリする。
あなたの為を思ってのことなのに、どうしちゃったの?と。(ここは私の想像だが…)
が、その人にとって、頼んでもいないアドバイスは、自分の脳を停止させてしまうことで、緩やかな殺人だとしている。
自分で決めて、それが最善だと考えていることに対して、全く別の方法を勧めてくるのはなぜだろうという。
さらに、本当に協力し合わなくてはいけない時に、知らんぷりしている人にはアドバイスしたほうがいいと思うが、自分に被害の及ばない事柄に関して世話焼きになり、助言する人達は一体なんなのだと思っている。

まとめを読み進むと、その世話焼きさんが、あなたは誰のアドバイスも聞かないんでしょうね…とか言ってて、それもなかなか興味深い。
Twitter上ではない、自分にとって必要なアドバイスは聞くよ、助け合う時には助け合うよ。と、一貫して言い続けてるのに。

それにしても、あなたのアドバイスは必要ない。と、これだけハッキリ言い続けてるのは、すごいなぁと思う。

これらのやり取りを読んで、アサーションをするときも、ユーモアがかなり助けとなるんだなと感じた。
…アドバイス罪ってネーミング、素敵すぎ。
それでも、なんにせよ伝えたいことを真剣に伝えようとすることは、自分のエネルギーをとても消費することなんだとも思った。(9月のトレーニングの会のワークにもリンクしてる。)

まとめを読み終えてからしばし考えた。

これはいつかの優しさについての話にも繋がっている。
人はそれぞれ違うものと考えるのが難しい時がある。

日々の中で、互いを尊重しつつそれぞれの中にある似た感覚や思考を理解し、分かち合えるということは、当たり前のことではない。

冒頭のメモが、なんだか片言なのは感動のあまりうまく表現できなかったからなんだが、当たり前のことじゃないんだ、すごいことなんだって思ったら、私の感動度合いも、片言にも納得した。
posted by 静 at 20:32| Comment(0) | こころの話

2015年10月06日

傲慢でせつないのオンパレード

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「屍者の帝国」を観た。
アニメ映画である。

フランケンシュタインによる屍体蘇生術が確立され、屍者が世界の産業・文明を支えている世界で、ホームズに出会う前の若きワトソンの話。
登場人物達は知ってる名が多くあり、それぞれの物語が絡みながら失われた21グラム、霊素=魂というものを通し、ストーリーは進んでいく。

原作を読んでいないからか途中、「????」となりながらも、生きること、死ぬこと、魂とは、言葉とは、感情とは、想いとは…。
そんなことが頭をぐるぐるしながら、せつないなぁって観ていた。
原作者達(プロローグを遺して亡くなった友人の原稿を引き継ぎ完成させた。)と、映像化された主人公がリンクしてて、それもまたせつなかった。

しかし、第九地区を観た時もマレフィセントを観た時も思った同じことを今回も思う。
やっぱ人間って、傲慢でクソだなって。
これって投影。
自分の中に傲慢でクソな部分があり嫌悪してるんだろう。
他人の中のそれを見てもガッカリしてしまう。
…だけど、愛や喜びや幸せを人との関わりからもらっている。
私の中にもそれはある。
それで私は生きていられる。
人に生かされていると感じる。
嫌悪し、苦悩し、バタバタしながらも何度でも歓喜し、信じ、救われる。

人間であるとはどういうことなんだろう。

思考すること。
様々な選択肢があること。
それを選択する自由があること。

スクリーンの中の人たちも、自分の答えを見つけていき、それぞれ進んでいった。

自分の事を自分で決める。
それはどえらい宝物なんだ。
だから傲慢でも、クソでも、なんでも、人として生まれてきたんだから、生きてる間は人間やっていくんだ。
(…口悪いなぁ、もう。)

…それにしても屍者だらけの映画だった。

あ、あと観てる時にペットセメタリーってホラー映画のことを思い出した。
あれは切なくて傲慢で哀しい映画だった。
posted by 静 at 08:29| Comment(0) | 日記