2015年08月10日

トマシーナ

ポール・ギャリコの「トマシーナ」を読んだ。

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片田舎の獣医マクデューイは動物に愛情も関心も抱かない。
一人娘メアリ・ルーが可愛がっていた猫、トマシーナが病気になったとき、彼は安楽死を選んだ。
そのときからこころを閉ざすメアリ・ルー。
町はずれに動物たちと暮らす〈魔女〉ローリとの出会いがトマシーナに新たな魂を与え、そしてふたりを変える。


と、いうあらすじが本の裏表紙に書かれていた。


神を信じず、人の想いよりも自分の理屈を優先するマクデューイに友人である牧師ペディが言う。

「愛の力というものは、自分に課せられた人生を歩む、その道程を少しでも耐えやすくしてくれるってことを、君は信じていないのかい?」

マクデューイは娘を愛しているが、それは失った妻への愛情を鞍替えしたもので、自己中心的だ。
だって、娘にとってあんなにも大切なトマシーナを簡単に、本当に簡単に奪ってしまうのだから。
自分がもう価値がないと判断したのだから、早く片付けてしまおう。それの何が悪いと。

様々な人の想いが存在することは彼にとっては重要ではない。

……もうね、マクデューイの、自分は何も間違っていないって様がね、苦しくて堪らなかったっす。
ふたりを変えるってあるけどさ、(と、あらすじに怒る(笑)
何が悪いかわかろうともしない人は決して変わらないんじゃないか。やっぱりそうなんじゃないか。
…と、えらい投影してしまい、あまりに苦しく重く辛いので、読み方としては邪道だろうが途中を飛ばして結末を見てしまった。

しかし、私にとってはそれがよかったみたいだ。
見た後は心穏やかに、途中のページに戻り読み進むことができた。

見えないものを信じようと信じまいとそういうものに様々な影響を受けて私たちは日々を過ごしている。
希望でも、絶望でも、それは自分が思うとおりに選択している。

ギリギリのところでも、人は気づけるし、変われる。

あぁよかったと読み終わりに心から思った。
posted by 静 at 21:31| Comment(0) | 日記

2015年08月07日

ひとりではないのです。

イヤな時はイヤでいいのだと教えてくれるひと。

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今日聴かせていただいたお話は「わかるわかるわかるわかる……」というテーマだった。
だけど、わかるのだが同じではない。
どうしたいかとか、何を最優先とするかなどもそれぞれ違う。

それでも自分を苦しめるパターンに気づき、それとは違った選択をしたいという気持ちは同じ。
posted by 静 at 21:34| Comment(0) | 日記

2015年08月06日

頭が煮立ったままでは困るのです

毎日暑すぎる。でも見上げた空は青く美しいです。

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昨日は教育分析へ。
今の自分の立ち位置みたいなものとか、私はこれからどこに向かいたいのか考えるヒントなどをもらう。

あとね、自分の理屈っぽいところも再確認。
そういうヤツなのだから、いろんなことをごちゃごちゃ考えるよりも意識的にシンプルに。
もともとある直感を大切に。
嫌だと思うことに種類があり、それを認識する必要があるみたいなことを話したのだが、イヤの分類とか今はいらんだろ…と、思った今日である。
イヤでも出来ること、イヤだから出来ないこと。
出来ることをやり、出来ないことには向かっていかない。
それだけ。
しかしそれが難しい。
少しずつね。

それとやはり、自分が頑張れば事態が良い方向に動くかもと期待していた私がいた。
そんな私に先生から思いもよらない目からうろこの視点をもらった。
「そういう世代。」
努力とか気合いとかではどうにもならないことと認めるってことを。

あと構いグセの矯正の必要。
手を出すことをこらえること。
これは私らしさを守るため。
あなたらしさを尊重するため。
それはお互いの生きやすさにつながる。
posted by 静 at 22:43| Comment(0) | 日記

2015年08月04日

見えないものを見つめる(カウンセラートレーニングの会)

7月のトレーニングの会でのワークは「電話カウンセリング」
背中合わせで相手が見えない状態でのロールプレイ。
対面のように表情や仕草が見られないことでどうなるのかを知る。

カウンセラー役をやらせてもらったが、対面とは違うこと、あるいは同じこと、その中で自分のできたこと、できなかったことをなど勉強させてもらった。
初めて先生と電話カウンセリングのロールプレイをしたときのことを思い出した。
全くできなかったなぁと。

今回は仲間に見てもらいつつのロールプレイ。
それでも話を聴くことに集中できた。
クライアント役の方は自分のありのままを聴かせてくださった。
ありがとうございました。

いつものようにギュウギュウのいっぱいいっぱいの一日。
そういえば、会が終わってお疲れ様となった時に、しばらく海外へ行く方への「いってらっしゃい」が、ちょっとそこまで的な「じゃ。」「おう。」みたいな感じになってしまったが、かえってまたすぐ会えるって思えてよかった。
またお話を聴かせてもらえることを今から楽しみにしている。
posted by 静 at 16:42| Comment(0) | 修行中

2015年08月03日

それでも進んではいるのです。(カウンセラートレーニングの会)

暑いです。猫もダレています。

@bayochanが投稿した写真 -




7月の終わり、カウンセラートレーニングの会に向かう道、暑くて息をするのも苦しいなぁと歩いていたら、横からヒョイと覗き込んできた可愛らしい笑顔。
「あーー!Aちゃん!」と言いながら、自分の顔を上げる動作から俯いて歩いていたことに気づきつつも笑顔を返す。笑ってご挨拶。
1か月は早い。早いけどその間にいろんな事があった。
また会えて嬉しい。
そう思いながら、なぜか猫から受けた傷の話をする私。
傷自慢。(笑)
いいのだ。この話をAちゃんにとてもしたかったのだ。
調子に乗って自慢していたら、後ろでそれを面白がって聞いているMさんがいた。(笑)
Mさんとは数日ぶりの再会。
サロンに久しぶりに伺うことができ癒されたばかり。
すぐに会えることがこれまた嬉しい。


今、自分の心の中でおきていることをわかりやすく話したいなぁと思ってはいるのだが難しい。
会話でも、文章でも。
あちこちへ話が飛び、とっ散らかった印象になる。(…と、自分は感じている。)
けど、浮かんでくる想いはその浮かぶままで良いか…と、このブログを書きながら思う。(言い訳?(笑)


いつかの教育分析の時に先生から、私の話が誰の状況を語っているのかわからなくなる時があると言われハッとしたことを思い出す。
その思考は自分のものなのか、妄想により生みだされた、境界線の曖昧な誰かの考えモドキなのか。

私は他者の思考に意識が行き過ぎて自分の本心を見失う傾向が強い。
自分の課題に取り組んでいるつもりだったのに、実は人のものだったとか。

共感する部分はそのままに一つ一つ丁寧に確認していく作業中。

今回のトレーニングの会でも、投影の嵐。
もう凄まじいまでの。
けど、投影って気づいていることって大事だ。
自分のある部分が鏡のように映しだされている感じ。
モヤモヤしてわからなかったものが目の前にある。

自分の見たくないものは、自分を痛めつけるためにあるのではない。
ただ知ってほしいだけ。
知ってほしいのは、痛めつけたいわけではない。
助けたいからなんだ。
本当は一番の味方。
そんな言葉が頭に浮かんだ。

いろんな人がいる。
様々な価値観がある。
そんな中で、自分自身を守り、大事にできる場所があること、それをわかってくれる人がいることは宝物をもっているのと同じこと。

この世の全てを自分の思い通りに、自分のためだけの宝物にすることはできない。
今、持っているものですら奇跡のようなのだから。
それを大切にしたい。


Мさんのサロンに伺ったとき、あるやりとりから自分自身に対して持っているマイナスのイメージが現れた。
トレーニングの会でのシェアリングの時にいろいろ話した中にその話も少しした。

自分のある部分はマイナスだ切り捨てたいと考えるだけでも痛手だろうに、これに生い立ちだの自分ではどうにもできないものまでマイナスの根拠だとくっつけて、さらに痛めつけていた私に気づいた。
そうやって自分を傷めつけつつ、実現不可能な理想を実は他者に押し付けようとしていたことも。

どういうことかというと…
「信頼する人には100%、全ての私を見せるものだ。」
こういう思い込みが私にあった。
これ、信頼しているから全部背負ってくれって言っている。
そして、だからあなたも全部見せてとも言ってるなぁ。
重すぎる。怖すぎる。

様々な要素やタイミングやらが重なり(てか、当然だよ。無理だよ)この思い込みを実現できたことはない。(…はず。)
ええ、本当に実現できてなくて幸いですだよ。
で、見せるも背負わせるも(見るも背負うも)できない私は「だから私は人を信じることができない。」というぶっ飛んだ理屈を長い間信じていた。

近年、オイラってば信頼しているよ。間違いなく信じているよ。という場面が増えた。
こんなに信じているのに、人を信じられない自分がいるってなんじゃいったい…と混乱していたが、このたび謎が解けた次第。
これも仲間のおかげである。

と、この話もトレーニングの会でしたかったのだが、現在進行形で聴いてほしいことがあり過ぎで話せなかった。
ので、覚え書き。

自分の気持ちをそのまんま話せる場所に、聞いてくれる人たちに今回も感謝。
そして、会のワークの話までまたたどり着けないのであった。
posted by 静 at 22:34| Comment(0) | 修行中

2015年07月05日

ただ寄り添うこと(カウンセラートレーニングの会)

6月のトレーニングの会の話もう少し。

今回のワークは基本のロールプレイ。
なのだけど、1組が行う様子を他のメンバーは見ているという形式。

とてもとても勉強になった。
ロールプレイをしてくれたお二方が上手なのだ。
カウンセラー役の方の寄り添い聴く姿が感動的だった。
この方はいつでもそうで私はその様子を見るたびに「すげーー」と思うのだが、さらにパワーアップしていた。
クライアント役の方も自分の大事な話をしていて、そのことで気づきが起こっている中で、カウンセラーとしての別の気づきもおきていて、その話を聴いた私は、会では何度もおこる目からウロコ状態にまたしてもなった。

クライアントが自分の心を見つめて何かを見つけたいと考えている時に、カウンセラーの態度がニュートラルでいるってとても大切なんだ。

あー本当にすごい人たちだ。
出会えてよかった。と、いつも思うことをまた思う。

その時々で必要なものを選び生かせるようになりたい。
そのためには一つ一つ違いを知っていくことなんだろう。
そんなことを考えている。
posted by 静 at 21:00| Comment(0) | 修行中

2015年07月04日

覚え書き(カウンセラートレーニングの会)

6月のトレーニングの会。

私はある一つの話を聴いてもらいたかった。
それはあるやりとりに遭遇したことからだった。

話すことができてよかった。
話が聴けてよかった。

うまくまとめられなかったので、メモ書き丸写し2部構成で。


(ある日のメモ書き)

優しさとは?

あるやりとりをみた。
テーマは優しさ。
ん?ちょっとモヤモヤするぞ。
自分の言動を優しさと己が名づけてしまうのはどんなもんだろうか。
まずそう感じた。

これは私の優しさなの。と。
優しい気持ちからの行動なのと、自分で言うか?って。

でも、あの人は優しいとか、あなたは優しい人だとか、私もよく言う。
人に優しく。自分に優しく。
今までずっとそんな言葉を何気なく口にしてきた。
でも優しさって?
このモヤモヤってなんだろうか。

やりとりの中で、優しさとは、自分の価値観を押し付けているだけと言っている人に対して、感謝や評価を期待した時点で自分自身への優しさになるだけでは。と、応えているのをみながらさらにモヤモヤしだしてうーーーんと考えてしまった。
私の中でめちゃ引っかかったわけだ。

では、無私の心で相手のことだけを考えた言動が優しさということなんだろうか。

喜んでくれたら嬉しいなぁと考えたら相手への優しさではなくなるのか。

相手は何を望んでいるのだろう、と私が考えるものは、相手の本心と一致するかはわからない。
自分が必要でも他者もそうだとは限らないんだ。
そこを忘れてはいけないのではと思う。
その上で相手を想い考えることができればなぁと思う。

で、その時もし何か行動する、あるいは行動しないと決めることは、たとえそれが相手を想ってのことだとしても、結局自分がやりたいことだし、自分自身の価値観バリバリだよなぁと。
他者からの評価や感謝は関係ない。
自分の意思。
けれどそれは押し付けるものでもない。
願いみたいなものかなぁとぼんやり考えている。

結果的に相手が受け取ってくれ、しかもそれをなんらかのプラスのイメージとしてとらえてくれたら…。優しさとか思いやりとか。
そんなふうに感じてくれたとすれば、こんなに嬉しく幸せなことはないけれど、そうは思ってもらえなかったとしても仕方ない。
行動する自由があれば、受け取らない自由もある。

あと、もういちいちめんどくせぇなぁと我ながら思いつつも、優しさと宣言されてしまうと、それをいらないと拒否する側がきつい。
そんな気持ちも湧いてくる。
多分、受け取らない自由もあるといいつつ、私の中には、優しさ=受け取らなければいけないものという図式がある。
で、きっと、受け取りたくないぜ…と、感じたことも何度となくありながら、相手が気を悪くすることを恐れて相手の期待通りに受け取らなければ…とかやってた。
それこそ他者からの感謝や評価をもらい自分が喜びたいだけという優しさの押し売りだと感じたとしても。
もうあれだ。
一方的な感情なんだ。
優しさを装ったそんなものに対する嫌悪感。
「あなたのため。」というニュアンスからはどうも対等な関係を想像しづらい私である。

…で、何が言いたいんだっけ。
人の言動を見てそれはあなたの優しさだよねと言っている私だが、自分の言動を優しさとは言いたくない。そう私は思っている?
そういうこと言う人のそれも優しさじゃないし!って思ってる??
あーー、これもちょっと変かもなぁ。
もう少し考えてみよう。

************

(トレーニングの会のあとのメモ書き)

優しさについてみんなの意見を聞かせてもらえた。
私は「優しさ」をほかの言葉に変えるとしたらなんだと思いますかとたずねた。
なんだか言葉にすごいこだわりをもっていたんなぁと今は思う。

そんな質問に先生や仲間は真剣に考えてくれて、私がその時点で思いついていた、思いやり、愛情、願い(願いは会では言わなかったけど、)に対して、自分が思いつきもしなかったものが出たことで、私が嫌悪感を抱くのは「優しさ」ではなく「易しさ、容易さ」なのではとハッとしたり、私のぼんやり思っていた「願い」は「真心」に繋がるものかもなぁと考えたり…。

あー、話してよかった。
という感謝の気持ちでいっぱいだ。

言葉にこだわってるって気づいてない私は、みんなの話を聴きながら、言葉を大切に使いたいと思っていた。
でも、どんな言葉を使おうと、自分が気づいているかは関係なく、自分の心が望んでいることはなんとなーーく伝わってしまうものなんだ結局ってだんだん考えだしていた。

仲間の意見を聞いていると、自分がいかに自分の心が置いてきぼりの思い込みに縛られているのか見えてくる。
自分の頭の中だけでこれが正しい!!これが正義だ!!と考えていても、様々な価値観に触れることで、そのこだわり自体が些細などうでもいいことのようにだんだんと感じてくる。
投げやりとかとはちょっと違う感覚。
なんでもいい自分ではなくて、いろいろあっても自分の中に「揺るぎない私」がいればいいんだって。

やはり一人で思考は限界がある。
実際に人と関わることが一番の学び。

で、私は自分を優しいっていうのはどうよ!?とモヤモヤしていたが、別に「これは私の優しさです。」っていってもいいか。と、ゆるーくなってみることにした。


人の考えに影響を受けることがあっても、それに振り回されない。
それは自分と他者との境界線を知っていること。

これからもたくさんの考え方をを知ることにより、様々な場面でも受容・共感する力を強くしていきたい。
そして、たくさんの考え方のなかでも「私」を持っているからこそ「違う」がわかる。
自己一致して物事を見つめていこう。


会の冒頭に先生が受容・共感・自己一致について話してくださったことが見事にリンクしていておもしろ怖いと思う私である。

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posted by 静 at 19:02| Comment(0) | 修行中